自己内部探訪の旅③「手」~心と繋がる「手」を癒すことで心身を整える
column
- コラム
- 前田岳人
先人たちが大切にしてきた「手」
かつてイエス・キリストは病める者を癒して回ったとされています。
どうやって?
手をかざして、です。
そしてこう言ったそうです。
「私が行っていることはあなたがたにもできることです。あなたがたならもっと上手にできるでしょう」と。
また我が国においても治療をすることを「手当て」と言います。
「手当」の本来の語源はどうやら報酬とかそういうものとも聞きますが、色々転じて医療の現場で「手当て」という言葉が使われたことは非常に興味深いと感じます。
ヨガの世界では手の形を目的によって使い分ける「ムドラ(印)」というものが存在します。
親指が宇宙を、人差し指が個人の魂を象徴しているとされ、他の三本のゆびも純粋や活力や無気力をあらわしていて、それぞれのバランスが保たれていることが大切だと言われています。
私は宗教の専門家でも医学の専門家でもありませんが、からだの専門家の端くれとして、「手」の重要性を無視することは出来ません。
W-GYMが推奨する「自己内部探訪の旅」でも、手に意識を向ける取り組みがあります。
私たちは「手」によって生きている
両手がある人は、かなりのことをこの両手に頼っています。
忙しい時には「猫の手も借りたい」と言うように、私たちは手によって生きているといっても過言ではありません。
今この瞬間もスマホを手に取っている、指で画面をスワイプしているという人は多いはずですし、そうでなければパソコンでマウスに手を置いておられることでしょう。
そして、この1週間ずっと何かしらの形で手を使ってきたに違いありません。
今時ではないかも知れませんが、大切な手紙は「手書き」でしたいという人は少なくないと信じたい。
手書きで大切な手紙を書きたいと感じるのは、手と心が繋がっているからです。
その証拠に、大切な人とは手を繋ぎ、仲間とは手を取り合いますし、友情の証に握手をします。
これは珍しい経験ではないかと思いますが、活力溢れる人と握手をすると元気がもらえます。
逆に弱っている人はその握る手がどこか頼りない感じがします。
手と心の関係をスピリチャルだと片付けるなかれ。
そう考えると、キリストの手かざしの様なある種の呪術的なものが、かつては医療の役割を担っていたと考えても何ら不思議ではありませんし、それによって何かしらの効果が得られることもあると考えるのはおかしいことではありません。
手と心が繋がっているとか、手によって病を癒すなんてことは、あまりにもスピリチャルでまったく科学的ではないと思われるかもしれませんが、そう言い切れるものではなさそうです。
心というのはつまるところ脳のことで、手と脳は科学的にも明らかに強固な繋がりがみとめられています。
私たち人間がこうして高度な文明を築けたのも、二足歩行になって手に自由が生まれ、その結果として脳が発達したからではないかという説すらあるのです。
また大切な家族や恋人が病める時、それが癒えるよう祈りを捧げる為に手を合わせることもあるでしょうし、時には手でなでたりさすったりすることでしょう。
時にそれは四足歩行の動物の様に接吻にとって代わることもありますが、手にしても唇にしても脳と連関の強い部位です。
手当て不足の「手」
しかしそんな手を、私たち現代人は少々雑に、あるいは過剰に使ってしまってはいないでしょうか?
スマホを手放せない時代なのに、手当てが足りていないのです。
「自己内部探訪の旅」で、手に意識を向けましょう。
指を1本1本動かしてみたり、手をグーパーしたり、なにか柔らかく滑らかなものに触れたり、両手を重ねたりしてみましょう。
そして何かを感じ取ってみましょう。
何が感じ取れるかはあなた次第ですが、血流がよくなる感じがしたり、感覚が研ぎ澄まされる感じがしたり、あるいは肩凝りがましになったり、色々な反応があるはずです。
W-GYMはパーソナルトレーニングをご提供するジムですので、おひとりおひとりに合わせてやることが異なるのですが、やはり皆さん現代人ですから、手当てが不足しておられる感があります。
ですので、本格的なトレーニングに入る前に、必ず手を手当するようにしています。
ベンチプレスのようなバーベルトレーニングが上手くいかないとお悩みの方も、もしかしたら「手」に問題があるかも知れません。
もし思い当たる節があって、「手」をよくしたいとお考えの方は一度お越し頂ければと思います。
そんなに難しくありません。
キリストの言葉を引用するのは少々おこがましいのですが、まさに
「私が行っていることはあなたがたにもできることです。あなたがたならもっと上手にできるでしょう」
ということです。
あなたにもできます。